年 度 | 佐藤彦五郎俊正 | 新選組関連項目 |
1827年(文政10年) | 佐藤家長男として誕生幼名庫太 | 1834年〈天保5年)近藤勇生まれる 1835年〈天保6年)土方歳三生まれる |
1838年(天保8年) | 父が亡くなった為11歳で名主役を継ぐ日野本郷3000石を管理した。 | 1847年(弘化4年)井上源三郎近藤周助に入門 |
1849年(嘉永2年) | 近隣農家から出火佐藤家を含め類焼この騒ぎにうらみを持つものが斬りつけ祖母他1名が斬り殺された。治安維持を痛感する。 | 千人同心井上松五郎の紹介で天然理心流近藤周助に入門 |
1854年(安政元年) | 天然理心流極意皆伝、近藤勇とは兄弟弟子、町田小野路の小島為政と三人で義兄弟となる。 自宅長屋門を改造して剣道場とする。 近隣の若者がこぞって入門。幕府が品川沖、砲台築造時献金 |
月1回江戸試衛舘から近藤勇・沖田総司らが稽古をつけに来る。 |
1858年(安政5年) | 8月日野宿の近藤周助門人23名が牛頭天王社(八坂神社)へ懸額を奉納 | 奉納額(土方歳三の名はない) 1860年「武術英名録」に土方歳三他7名の名が載る。 |
1861年(文久元年) | 8月近藤勇天然理心流宗家4代目襲名披露試合が府中六所宮(大国魂神社)で行なわれる。 | 大きな奉納額が官軍探索の前にどこかにかくされた |
1862年(文久2年) | コレラが蔓延し100余人、仏棺が街道に列をなした。この時米穀、薬財を広く施与し将軍家より白銀を給わった | 疫病の呪いなる由多数の大般若経巻を貸し出した(大昌寺へ寄進) |
1863年〈文久3年) | 将軍警護浪士組募集には名主の仕事の為義弟の土方歳三を推挙自らは江戸と多摩の新選組隊士の世話と剣の指導を引き受ける。 農兵隊を組織する。 | 近藤勇には資金的協力と相談に応じていた。 |
1866年(慶応2年) | 武州名栗で発生した一揆は小宮村に迫り八王子千人同心、農兵隊が出動、長男源之助も銃術で射撃、撃剣にて鎮圧。八王子へ凱旋 | 1864年池田屋事件発生、新選組注目される、 |
1867年〈慶応3年) | 薩州浪人12人関東を徘徊、八王子の壷伊勢屋の投宿、近藤門下を引き連れ拳銃をもつ相手に突撃、近藤勇も鉄砲玉はあぶないあぶない。私もそれは遣らぬ | 10月大政奉還、江戸で新隊士募集 |
1868年(明治元年) | 3月甲陽鎮撫隊と日野宿の農兵を中心に組織した春日隊、甲府向うも雪にも阻まれ勝沼戦争で敗退 佐藤家離散の危機 江戸から東京と改称 | 正月鳥羽・伏見の戦い、井上源三郎戦死 4月近藤勇処刑、5月沖田総司江戸で病死する |
1869年(明治2年) | 逗留さきより忍んで近藤、土方に一族赦免を相談、土方歳三より源之助に葵御紋の刀を貰った。近藤は大久保一翁に、土方は海舟勝安房守に密使をたてて、日野佐藤彦五郎一家差構なしの達しが大本営詰め西郷からあった。 名前を代々の彦右衛門に改める。 | 5月箱館総攻撃、土方歳三戦死 7月初め市村鉄之助が佐藤家に到来土方歳三写真と遺品を伝承する。 |
1872年(明治5年) | 戸籍作成時に佐藤俊正と改めた多摩川築堤工事を行う。 | 。 |
1873年〈明治6年) | 第9区区長に就任、学校誘致に尽力 |
明治7年新政府に敵対して戦死した者の霊を祀ることを許可。 |
1877年〈明治10年) | 明治9年近藤・土方両雄顕彰が検討される。小島為政・土方義弘・佐藤俊正らが奔走 1月17日妻のぶ47歳で死去 |
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1881年〈明治14年) | 6月三男連太郎22歳で死去、 初代南多摩郡長を辞職 | 。 |
1882年〈明治15年) | 多摩川での投網や釣り、土方歳三の長兄 閑山亭石翠とは俳句などで親交は一層深まった | 。 |
1902年(明治35年) | 第13代彦五郎俊正明治35年9月17日病没 76歳 菩提寺は大昌寺 | 1888年(明治21年)殉節両雄之碑落成 |