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■ 新撰組と薬剤師(牛額草)
『彦五郎と八坂神社の関わり』
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上佐藤・下佐藤家の祝詞が一般公開されました。

当時の彦五郎の思いが伝わって来るようでした。

この二つの祝詞は、最近発見されたものです。


祝詞などの八坂神社への奉納は、写しが納められるのが通例だそうです。

日野の八坂神社の神輿等の再建された際に納められた佐藤俊正(彦五郎)がしたためた祝詞の写しが出てまいりました。

慶応元年、牛頭天王社(日野八坂神社は普門寺の混淆で、日野図書館裏にあった)の神輿が、近隣町村との軋轢が生じたことによって、破壊されてしまいました。

その後、武州一揆、戊辰の役等により、再建されませんでした。

明治元年には、神仏混淆禁止令が出され、翌2年に八坂神社と改め、本陣(彦五郎邸)の向い側、日野図書館裏から、現在の場所に移されたようです。

明治3年、彦五郎の長男・俊宣(当時21歳)が発起人となり(彦五郎は戊辰戦争に関わっていた為、一時的に長男を表舞台に出したと考えられる)、神輿、お仮屋神輿庫等の新建計画が出されますが、漸く完成したのが、10年の歳月が流れてのことでした。

再建された際の彦五郎の祝詞には、明治13年9月15日の日付けが記されておりました。
大変立派な文字と素晴らしい文でございます。



彦五郎と八坂神社に関わり

彦五郎が八坂神社に関わったことについての年表
寛政12年(1800)牛頭天王社再建   彦右衛門
嘉永7年(1854)八坂宮再建     彦五郎
安政5年(1858)天然理心流奉献   彦五郎
万延元年(1860)祇園社の篇額奉納(工匠 鈴木亀吉)彦五郎
慶応元年(1865)神輿破れる
明治元年(1868)神仏混淆禁止令 (近藤勇の死)
明治2年(1869)牛頭天王社、八坂神社と改称。普門寺の管理離れる。(歳三の死)
明治3年(1870)名主・俊宣発起人となり、神輿、お仮屋、神輿庫の新建計画
明治7年(1874)有栖川宮熾仁親王の書による『八坂社』の篇額完成『祇園社』の額と変える
明治13年(1880)神輿等の完成、上下佐藤で祝詞奉納(彦五郎邸に明治天皇ご小休・6/16)

以上、『八坂の杜から』日野市八坂神社出版より

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