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『古写真』が出てきました。

福子だよりに写真掲載中

手札判の写真が出て来ました。

そこに写っているのは、5人の男性なのですが
裏面を見ると名前が書いてありました。

向って前右が長男『佐藤俊宣』、前左が二男『佐藤力之助』
後ろ右が三男『佐藤連一郎』、後ろ真中が四男『佐藤彦吉』
後ろ左の背の高い方が『加藤正之』となっています。

4名は、彦五郎とノブの息子たちです。
加藤正之さんという方ですが、その方のご子孫が2年程前、
資料館に来られ、ご先祖さまが彦五郎と関わりがあったとの話しをしてくださいました。
横浜で英語教師をやっていた加藤さんは、彦五郎に依頼されて、
日野宿まで馬に乗り、家庭教師、先生としてやってきていたそうです。

この写真から想像すると、明治5〜6年の頃の写真かと思われます。

その手立てとして、四男の彦吉がまだ少年のような背丈なので、13歳くらいでしょうか。
カメラを睨みつけているような姿が、なんともユーモラスです。

三男の連一郎は、医科大学(現:東京大学医学部)在学中に22歳の若さで亡くなっています。
この写真の時は16歳くらいということになります。
美男子で、医者を目指していたのですが、最も将来を嘱望されていたという話しです。

二男の力之助は19歳ということになります。その後、力之助は土方歳三の兄・喜六さんの孫娘と結婚しています。

長男・俊宣は24歳となります。嫁に迎えたのは、歳三が書を習っていた本田覚庵さんの娘です。

まだノブも健在であった頃です。

彦五郎は、文化人との交流も多く、若い頃から俳句、楽器、書などを嗜み
風流人として生きてきましたが

明治時代初期には、これからの世の中は英語が必要と感じ
早々に取り入れ、学ばせていたことになります。

当時の状況から考えると、革新的であり凄いことだと思いました。

彦五郎というと、仁侠心に富み、侍道の精神も持ち
徳川家の天領という土地柄、『命を惜しまずに幕府を守る』心意気がありました。

維新以降も自分たちのやったことは間違っていないという信念を持ち続け、
その後も殉節両雄の碑を建てることに、力を注ぎますが
一方では、いいと思うことには西洋のものも積極的に取り入れていったということでしょう。

これは歳三と共通するところかも知れません。

自分の信念を持ちながらも、柔軟な考え方ができるということではないでしょうか
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