甲陽鎮撫隊、春日隊退却時にも貴重な猿橋を守った  
勝沼から大月に戻り息巻く者も少なくなかった。 猿橋へきて、この橋へ薪を積み、油をかけて焼き落とし、敵軍の進路を断って、防戦をしようとたちまち実行に及ぼうとした。  

ところがそこにいた春日盛は、日野宿名主佐藤彦五郎で,宿方の世話で苦労してきた、通路橋梁の設備は大切の事で。特にこの難工事の猿橋を一度焼去すれば、後日、土地の者世人の多くが、いかに困るかと心痛されたので、皆を排して躍り出し、大手を拡げて「この橋を焼落することは、どうあっても、この春日盛が不承知だ」と大声に頑張って中止させた。

実に際危い所で、天下一奇勝を救い得たのであった。この時蹟は、何とかして当該猿橋附近に銘刻記念したいものである。            
源之助の銃術で歳三も上洛を願ったが「のぶ」が断った  
慶応3年春、土方歳三子御用命を蒙り京都から江戸に下った。1日閑を偸んでわが家に来泊、話しはたまたま兵 隊調練のことに及び、このころ源之助はだいぶ熟練上達したそうだ。

ひとつ操銃」方をやって見せよ。といわれた父は時に17歳、庭前に降り立って12段打方やら乱打やら、小隊中隊の練り方号令等を実演した。
土方これを見てしきりに感嘆し、あっちの局中にもかくまで熟練したものはない。

願わくば、源之助を同伴上京し隊士等へ教授方を勤めさせたいと言い出した。

祖父は承諾の心であったが、祖母(のぶ)が反対、若年なる当時の父の病気その他を気遣ってついに同行させぬことに決してしまった。父としては遺憾きわまりなかったと言っていた。
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土方歳三と源之助、馬で日野原を駆ける  
慶応3年秋、御用にて東下した。 井上源三郎、斉藤一、平野五郎等同道 一日土方はこの井上と馬上でやって来た。黒羽ニ重紋服仙台平の袴、大小いかめしくいずれも立派な武士。

翌日土方は一日、馬を遊ばせておくは悪い、ひとかけしようと、父を井上の馬に乗せ、轡を並べて、日野宿通りを西へ向かって駆けだした。

父は折角の勧めで、止み難く馬上の人になったので、危険不安、冷や汗を流しつつ、日野大坂上から新田まで、日野原を2回往復、土方はこれで帰ろうと馬首を東へ一鞭、ハイヨーと掛け声勇ましく大坂を下る。

父は鞍にしがみついて一生懸命であった。
父の姉がちょうど表門外にいて、ニ頭の乗馬が帰ってくるをはるかに認め、走り入りて家内に知らせる。 
その間に早くも表門へ乗り込んできたということであった。随分飛ばしたものである。父は顔面蒼白、土方はこれを顧みてもニコニコ笑っていたという。
沖田総司も飲んだ秘薬があった 
わが家には代々伝わっている虚労散という薬がある。 これは、元来肺病肋膜の内服薬で、いつごろから家伝になっていたかは不明であるが、終戦直後頃までポツポツ求めに応じていた記憶がある。

土方歳三の生家でも石田散薬と云った打身骨接の家伝薬があった。歳三は小遣い銭稼ぎと武者修行を兼ねてこの薬の行商をやっていたと云い、今でも土方家には歳三の使用した売薬箱が遺っている。 歳三は自家の石田散薬と共にわが家の虚労散薬も売っていた。

私の親戚には他にも家伝来と称するものを製造していた家もあるが聞いてみるとその製法は皆似たりよったりでそれこそ言い伝えのまま、打身骨接の妙薬とか肺病肋膜の特効薬と称して売っていたが、しかし一種の信仰心もあって好評と聞いている。  

製法は多摩川、浅川の川原に生えている牛革草と呼ぶ野草を乾燥し、黒焼きにして、薬研で粉末状にしたもの。わが家の虚労散薬は、白湯で飲用するが、土方家の石田散薬は酒を用いて服用する。

共に新選組の常備薬になっていたと言うが、石田散薬は、打身骨接の薬であるから戦闘を伴なう新選組としては、かなり用いたであろう。

虚労散薬は、肺病肋膜の特効薬と言われていたので、沖田総司の持薬であったと云うことです。
沖田の主治医松本良順先生もあえて服用を止めようともせず、沖田総司自身も懐にしているだけでも少年の頃を思い起こし心あたたまることであったであろうと思う。 
続く→
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