佐藤家大災難 一家離散の危機!! |
官軍は3月8日に甲府を発して総攻撃となり11日には八王子へ到着した。薩摩・土肥諸州の兵、ニ千人余、八王子の横山町の柳瀬屋を、参謀隊長板垣退助の本営とし、市内東西に竹矢来を建て連らね、番兵は厳しく往来の諸人を調べる。 者凄じい官兵がニ、三十人ずつ隊を組み、市内外近隣村落等を巡邏して、鎮撫隊の残兵を捜索する。すでに密告した者があって祖父彦五郎は、最も目指され「日野の彦五郎は、草の根分けても見付けにゃ置かぬ」と狙われてしまった。 全く危地に陥ったので、前夜の内に身仕度を整え、一家一同皆散り散りに、四方八方へ逃げ失せたのである。実に、わが家始まって以来の大災難である。彦五郎はこの時年厄年42歳であった現存していた一家の名前、年齢下記の通りである。 |
主人 佐藤彦五郎俊正 四十ニ歳 明治三十五年九月十七日死去 七十六歳 |
妻 のぶ(土方歳三の姉) 三十八歳 明治十年一月十七日 死去 四十七歳 |
母 まさ(土方家より嫁ぐ) 六十ニ歳 明治二十一年三月十四日死去 八十ニ歳 |
長男 源之助俊宣 十九歳 昭和四年四月十三日 死去 八十歳 |
二男 力之助 十四歳 明治三十六年五月十五日死去 四十九歳 |
三男 漣一郎 十一歳 明治十四年六月二十日 死去 二十三歳 |
四男 彦吉 八歳 昭和十年現在七十五歳に達している。 |
二女 とも 五歳 明治四十三年二月十六日死去 四十七歳 |
長女 なみはニ十ニ歳にて、鶴川村小野路の橋本政直に嫁している。 |
佐藤家大災難 一家離散の危機!! |
祖父彦五郎と祖母のぶは、末っ子なる叔母ともを下女あさ(十八歳)に背負わせ、東光寺道より栗の須下を走り、小宮村北平の大蔵院へ逃竄した。これは土地の名主平氏の懇切なる案内による。 同院の尼僧も快く奥の間にかくまってくれた。 薄暗き座中に尼僧の接待、渋茶を啜ってホッとひと息した時に、栗の須井上忠佐衛門方から、ここえ官軍が来そうであると急報して来た。ソレッと再び草鞋をはき、寺院の裏庭続きに雑木林をよじのぼり、峰伝いに西へ西へと走った。 井上家下男が叔母ともを背負って、道案内をした。 この時の様子を後で土地の者から聞いたのに、シャグマの官軍が、大蔵院を取り囲み、庫裏の囲炉裏で握飯の醤油焼き(これを彦五郎等の弁当に与えるつもりであった)をしていた尼さんを引き立てて、奥の間の襖を開けさせた。 尼さんはその座中に彦五郎が、真実いることと思って、南無阿弥陀仏を唱えながら開けた。 ところが一座皆空留守だったので、腰だめに鉄砲をならべ向けていた官軍も唖然とした。 尼僧もまた驚いたが、ホッと安堵したと云うことです。 官軍はそれから寺院内外隈なく捜索して発見出来ず、空しく八王子へ引き揚げた。 なお村の遠方より見ていた者の話に、裏山を三、四人這いあがる、その白足袋がよくチラチラ見えたと云う。 これを官軍に見つかれば一斉射撃、そうなると例の祖父の事であるから、大刀振るって斬り降ろし、捕縛か射殺かに遇ってしまったに違いない。 実に助かったのが不思議な位で、神仏の加護と感謝すべきである。 かくて彦五郎一行は、西多摩郡ニ宮村の茂平氏宅に辿り着き、さらに案内され大久野村なる羽生家に着いた。 すでに夜半の一時頃であった。 同家主人始め皆起出で茂平氏より委細を聴いて驚きかつ同情せられ、奥座敷に招かれて、食事万端厚き待遇を受け、全く安心して寝に就いた。これよりたえず茂平氏の奔走で、官軍の状況を探り知ったという。 |
源之助官軍に捕まる |
源之助は病み上がりで室内をつかまって歩くほど衰弱していた。夕方駕籠で、栗の須井上忠佐衛門宅へ落ちた。同家には十五歳の養子錠之助がおり源之助も義兄弟の約を結んでいる。 兄弟のごとく親しく、源之助を兄さんと呼んでいた。 翌日、下男の鉄蔵と隣家の倅兵蔵とが、裏口より駆けこんできて、官軍のシャグマ兵が三十人ばかり、向うの山の下に見えるとの知らせ。直に父は鉄蔵に背負われ、錠之助には兵蔵が付添って山林畑中の嫌いなく、ひた走りに隣村宇津木へ山越しして、とある小さな農家に入り、老婆に頼んで押入れの中に隠れた。 鉄蔵、兵蔵が立去って間もなく、この家の周囲にドロドロと云う足音が聞こえた。壁の隙間から窺えば、白や黒毛の陣笠に、陣羽織のもの、黒の筒袖のものなど、各腰に太刀手に長銃と云う官兵六、七人が、この藁家の周囲を駆け廻っている。 全く父等は絶体絶命、たちまち耳元でズドンと一発の銃声、山野に響き渡る、発見信号であった。 時を移さず、ニ、三十人集合して来て、隠れ家は厳重に包囲されてしまった。附近の百姓子供を拉して来て、押入れの戸を開けさせた。 屋外では大声で構え筒の号令、カチカチと打金を上げる緒と音が聞こえた。 父は錠之助を諭して、運は天にあり、従順に軍門に降り、しかして後病身旨を述べて解免を願わんと、先ず携えていた会津正宗の作、ニ尺五寸五分の愛刀を縁先へ投げ出し、匍匐して出て低頭平身、御手向いは致しませんと述べた。 |
官軍の厳しい取り調べ |
ソレッと四、五人躍り上がって来て、銃の台尻で背骨をニつ三つ突かれ、両腕を背中に廻し、縛り上げられた。雨上がりの泥庭へ突き落とされて、錠之助は泣いている。 隊長らしい、六尺豊かな偉太夫は、独眼を光らせて、手に青竹を突き立てて、彦五郎のゆくえを糾問する。父はただ知らぬ存ぜぬと答えるのみ。その度ごとに、銃の台尻で両腕を肩の方へこじ上げる。 かわるがわる責められ八王子の本営に送られることになった。 その夜七時頃、内玄関の如き板の間に呼び出され、吟味役が三人居並び、その方は日野佐藤彦五郎の長子源之助であろう。この場合となって偽りあらば一命にも拘わる。 真実の所を答よとて 第一 父彦五郎の逃奔したる行先はいずこであるか 第ニ 彦五郎と近藤勇、土方歳三とはいかなる関係か 第三 日野宿に大砲小銃の弾薬が隠匿ってある筈だ。その場所はいずこであるか 第四 日野宿及び附近一帯の住民が、近藤勇に剣法を学んでいたと云うが、その人数は幾人位あるか。鉄砲術を心得た者は幾人か 以上四箇条につき、繰り返しくりかえし訊問する。父源之助は知れる限り、事実の有無を答弁した。 傍に扣えた兵士が太刀を抜いて、白刃を首筋に冷々当てては脅す。ただ彦五郎の行き先のみは真実知らぬのであった。 一家離散も咄嗟の間にて、申し合わせもできなかったのであるから。 翌朝も前夜の事を繰り返した。いよいよ首を打たれるものと覚悟して、立派に死なんと、かねて作って置いた辞世を心の内に吟詠した。 |
板垣退助による寛大な申し渡しに感涙 |
前の障子が開いて威容厳然たる隊長格の板垣退助が現れた。その方の父彦五郎は近藤、土方の新選組に関係のあった事はすでに明らかである。 今までその方が申したてたる所に、偽りはないかと聞かれて、真実である旨を答えた。 今日より、朝命を奉じて君国に忠義を尽くすか、どうかと問われ、謹んで尽忠報国の旨を答えた。 板垣隊長はこの時一段声を落として、その方は父の在所を漫然知らぬでいるとは、子として不幸ではないか、その不幸の廉は重き刑罰に処すべきである。 しかしながらまた、子としてはたとえ自分の父の行先を知っておっても、それを白状せぬ、自分が罰せられても父を庇護うと云う所もある。 それなればまた却って考道に厚きものである。 天朝の寛大なる御主意に基き、その厚き考道に免じて今日全てを許し遣わす。必ず親は大切にせよと申し渡された。 父はこの時全く感涙に咽んだという。 錠之助と共に出立しようとしたが、履物がない。軒下に脱ぎ捨ててある官兵連の古草鞋を貰い、なお取り上げられた腰の者を伺って見た所、すぐに返されたので、漸く釈放、八王子の大通りへ出た。 老母よりの話に、日野では官軍が佐藤の家へ真先に侵入し、土蔵の中から天井裏、床下まで探し回り、元込め銃を十九挺取り上げた。 留守居していた日野義順と忠左衛門とは、余類と見られて拘引され、井上松五郎と佐藤房次郎の両剣士は逸早く姿を消して、石田の石翠老人は盲目のこととて許されたと聞く事毎に、恐怖の数々、しかし拘引された者は皆有難くも疑団晴れて帰宅した。 |
蜀山人 佐藤家の蕎麦を誉める 07 |
佐藤彦五郎家は、代々おいしい蕎麦で有名で太田南畝こと蜀山人(歌人)は宿泊しては一首に 「いかにして粉をひこえもん、ふるいては日野の手打ちもこまかなるそば」とありここの蕎麦が一番おいしいと誉めている。 「竹の子の子の竹の子の竹の子の、子の竹の子のすえも繁る目出たさよ」と書き残して、衝立になっていて、佐藤道場跡はそばや(日野舘)として営業していました。日野館は日野市 神明に移転します。 |