TOP ご挨拶 福子だより 開館日 入館料 展示品 案内図 彦五郎 新聞記事 鉄之助 リンク集
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市村鉄之助、乞食姿で佐藤家へ辿り着く  
佐藤家では心淋しく辰年を送り、明治二年を迎えた。 七月始めのある日、夕立あとが上がりそこねて、再び梅雨降りのようになった。 

軒下の薄暗がりが何となく気味悪い黄昏時、一人の乞食小僧が古手拭を冠り、蓙を蓑代りに着て、家の中を窺うように立っている。

胡散臭き風体ゆえ、追出さんと声をかけると、却って腰をかがめて台所土間へ這入ってきて、御主人様の御目に掛りたいと低い声で私言くように云う。

その物腰がいかにも仔細ありげであるから、中庭へ廻し、祖父彦五郎が出て逢った。

きたない胴締から、写真一枚と小切紙とを取出して示す。 見ると驚いた。 その写真は洋装に小刀を手挟む土方歳三で小切紙は、半紙の端をニ寸ばかり切ったものであつた。

「使の者の身の上頼上候  義豊」

と書いてあった。 紛ごう方なき真筆である。 委細は後と、ちょうど夕風呂時、入浴させ、帯衣類を与えて着更えさせ、居間に入れ、襖を閉め切って話を聴いた。

 小僧は、漸く安心したのと、優しく労わられるのとで、今まで張切っていた気も緩み、目には涙をうかべながら話し出した。
            
市村鉄之助が土方歳三との別れを語る  
「私は土方隊長の小姓を勤めていました。 市村鉄之助と申す者です。 去る五月五日函館五稜郭内の一室で、隊長が私に云われるに 「今日はその方に大切なる用事を命ずる。

 それはこれから、江戸の少し西に当たる、日野宿佐藤彦五郎と云う家へ落ちて行き、これまでの戦況を詳しく申し伝える役目である。

 今日函館港に這入ったかの外国船が、ニ、三日中に横浜へ出帆すると聞いたので、船長に依頼して置いた。 この写真と書付を肌身に付け、乗船して佐藤へ持って行け、なお金子を二分金五十両渡す。日暮も近い、時刻もよいからすぐに出立して、舟に乗込みその出帆を待っていろ」と。

私は「それは嫌です。 ここで討死の覚悟をきめておりますから、誰れか外の者にその事を御命じ下さい」と云いました。

すると隊長は大変に御怒りになって「わが命令に従わざれば今討ち果たすぞ」と、いつも御怒りになる時と同じ恐ろしい権幕、私はそれでは仕方がないと断念して、

では日野へ参ります」と申しました。 隊長もにっこり笑みを含まれて、

「日野の佐藤は、必ずその方の身の上を面倒みてくれる。 途中気を付けて行けよ」と云われました。
土方歳三永遠のすがたに涙・涙   
案内人連れられ、城の外へ出て振返りますと、城門の小窓から見送っている人が遠く見えました。

隊長であったろうと思います。

 特別の手当が船長に行届いていたのでもありましょう。船長は大変親切に、自分の室近くの綺麗な一室へかくまつてくれ、出帆を待ちました。

十一日の正午頃、隊長は一本木と云う海岸で、戦死されてしまったと云うことを、この船中で聞きました。・・・と話の声も途絶えがちで、市村を取り囲んで聴いていたわが家の皆々、共に涙を流さぬものはなかった。


市村鉄之助は、当年十六歳であつた。 美濃の大垣藩にて、去年慶応四年、家兄と共に新選組最後の募兵に加盟し、兄は江戸へ引揚げた時行方不明になって、鉄之助のみは、独り土方の側を離れず、才智あつてよく事え、土方もひと方ならず愛していた。

我が家に滞在中、毎日、土方歳三東北緒方転戦の模様から、函館滞在中の事及び五稜郭戦争等を話した。
鉄之助三年間佐藤家に匿われる 
三年の間鉄之助は、わが家に食客になっていた。 その間読み書き手習いをさせ、撃剣も教えてやった。

 その内世間も穏やかになってきたので、かねて持参の五十両のニ分金を、横浜の銀行で新紙幣に両替した所、当時流行のガラ金があったため減額された。 

祖父彦五郎はその不足分を補ってやり、かつ五十円の餞別を与え、明治四年三月、大垣に親戚があるとの事ゆえ、日野横丁の吉野屋安西吉右衛門氏を付添わせ、帰国させた。

その後、十年の西南戦争に、西郷旗下に与して戦死したとの風説。 文音も絶えてしまった。
土方歳三の小切紙は「のぶ」針箱へ    07 
鉄之助持参の歳三義豊の絶筆たる小切紙は、その後久しく姉「のぶ」の針箱内に入れてあった。

実弟の絶筆で、残り惜しく思い、祖母のぶは身近くの針箱にしまって置いたものであろう。
祖母の死後いつとはなしに亡失した。写真はいまも保存してある。
続く→