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鉄之助、土方歳三の最期を語る   
鉄之助は涙が溢れてくるのを抑えることは出来なかったが、しかし堰を切った水のように、また辺りに誰もいないように、自分自身の中に没入して話だした。 「たしか、五月五日の日暮れでした。 私は五稜郭内の一室で、土方隊長より

「今日は、」その方に大切な用事を命ずる。 それは、これから、此処を脱して、江戸の少し西に当る日野宿佐藤彦五郎の所へ行き、これまでの戦況を詳細伝える役目である。 そして、今日函館に入港した外国船が、ニ、三日中に横浜へ出帆すると聞いたので、船長に依頼しておいたから、この写真と書付を肌身につけ、佐藤へ持って行くのだ。日暮れも近い、時刻もよいから、直ちに出立して船に乗り込め」

と言いました。 私は「それは嫌です。ここで死ぬつもりですから、誰か他の者にお命じください」と、断りますと・・・・・・、隊長は「お前より外に頼む者はないのだ、承知してくれ」とも言いましたが、私は返事をしませんでした。しばらく考えておられた隊長は、突然大声で「市村、これは命令だ。隊長の命令に従わなければ、止もう得んが、ブチ斬るぞ」


と、いつもお怒りになる時と同じ恐ろしい権幕で申されました。 私も致し方なく承知することにしました。「日野の佐藤は必ず、お前の面倒は見てくれる。 心配せずに行きなさい。ただし、道中は決して気を許すな。 官賊に発見されれば、おそらく命は無いだろう」と言われました」鉄之助は何故か、言葉を切り、下うつむいてしまった。 しかし誰も口を挟まない・・・・・・。


「それから案内人に連れられ、城の外へ出て振り返りますと、城門の小窓から見送っている人が遠く見えました。それは隊長であったろうと思います」 鉄之助は再び言葉を切ったが、思い返したように語り続けた。

「船へは特別な手当てが行き届いていたのでしょう、船長も大変親切に扱い、自分の室近くの綺麗な一室へ匿ってくれ、出帆を待ちましたが、船の都合でなかなか出発できません。


五月十ニ日の朝、まだ薄暗い時に、当番兵に起こされました。 すると当番兵に従って這入って来たのは、隊長の馬丁の忠助でした。 忠助は大変慌てていたようでしたが、あたふたと油紙に包んだものを私に渡しながら、


「隊長は昨日戦死された。その前に、こいつを届けるようにと預かっていたんだが、危なくて来られなかったのだ」と言うのです。 私は驚いて隊長の戦死の模様を尋ねましたが、忠助は急いでいたので委しいことは聞けませんでしたが、隊長は五月十一日の未明、籠城戦で死ぬのは嫌だと言って、額兵隊と伝習隊の一部を率いて城外に打って出たそうです。 


そして昼頃、海岸近い一本木関門より進撃して、異国橋付近で銃丸に腹部を貫通され落馬したので、それまで付添っていた忠助が駈け寄り、抱き起こした時には、すでにもう隊長は・・・・・・」


鉄之助の語尾はかすれて、涙となった。 いつの間に来たのか、のぶの啜り泣きが聞える。 暗然とした沈黙の刻が流れた。盲目の人が静かな声で、「鉄之助さん、歳三が忠助とやら言う人に届けさせた包みとは何だね」と問うた。


「はい、二分金でニ百両余りと、辞世と、認めてある、私あての和歌です」すると、次兄の喜六が思わず、

「歳の辞世の和歌、よかったら是非見せて下さい」


鉄之助は懐中から、折り畳んだ半紙半截くらいの紙切れを取り出し、彦五郎の前へ差し出した。彦五郎はそれを取り上げると、暫くじっと見つめていたが

「辞世   

    たとひ身は
         蝦夷の島根に朽つるとも
                     魂は東の君や守らん

                                                   義豊」

さすがの彦五郎も涙で消されがちの読了であった。 のぶと源之助の嗚咽のかげに、為次郎、喜六の押し殺したような沈黙のいっ刻続いた。しばらくして盲目の為次郎が、

「そうかい、天然理心流も鉄砲玉には通じねェと歳三が言っていたっけ・・・・・・おのぶ、あ奴の魂魄はもう此方へ帰って来ているぜ」と言った。 それにつれられて、彦五郎も喜六も、ようやく口がほぐれたのか、こもごも鉄之助に、近藤勇が、下総流山で捕らえられた後の、歳三の行動について、色々と聞き始めた。  

聞かれるままに鉄之助は、宇都宮戦から会津の戦争の模様、そして仙台から榎本軍と合流しての函館戦へと話し続けた。

           
土方歳三と市村鉄之助の新選組入隊のいきさつ   
のぶが茶を入れ替えて来た時、こん度は鉄之助の方から彦五郎へ問いかけた。 「去年の十一月頃、松前城を攻め落とした時、多摩出身の斎藤一諾斎と、松本捨吉さんが、松前藩主の奥方を江戸まで護送する役目を隊長から命ぜられて、松前を立ちましたが、その後はどうしたか御存知でしょうか」 すると、彦五郎はうなずいて、


「そうそう、確かに無事役目を果たして戻ったよ。 しかし二人共、人目を忍んで一度だけ訪ねて来た。 私には大体居所は判っているが、まだ物騒だからこちらからは声をかけないことにしている」 と答えた時、為次郎が柄になく沈んだ声で、


「お前さんも、もう少し静かになるまではこの家でジッとしていることだ。 歳三が討死するようでは、五稜郭も長くは保つまい。 戦争が終れば、本当に世の中も変わるだろう・・・・・・。嫌だ嫌だ、彦五郎さん、俺は気が滅入って仕方がねェ。おのぶ酒を持って来い」


       「 盃は一つ余分にな、歳三の分だ 」

続いて彦五郎も「鉄之助さんも、長話しで御苦労だった、いずれ蝦夷の様子も探って見ようし、それに世間がどう変わるかも判らないから、当分ここに居ることだ。 隠れていると言うことは、俺にも覚えがあるが、嫌なことだが、しかしここに居る限りは決して心配しなさんな。


 そして体の疲れがとれたら、お前さんもまだ若いのだから、心の疲れを直さなくてはいけない・・・・・・まだやり直すのだよ」 彦五郎は、鉄之助に心の疲れを直せと言ったが、果たして、父とも兄とも敬慕する人を失った、十六歳の孤独な少年の心は、いつ癒されることであろう・・・・・


鉄之助は、その晩眠れぬままにこの家に来てから初めて外へ出てみた。 裏門から田圃に出て、そこの流れている小川の縁に腰を下ろし名も知れぬ虫の声を聴いていると、順序もなく過去のことが思い出されて来る・・・・・・。 それは慶応三年の秋であった。 如何ような藩歴があろうとも、時世の波は浸して来る。 鉄之助の故郷、美濃大垣藩もそれは避けられず、尊攘急進派と日和見改良派との争いで揺れ動いていた。


そして短気者か、または一旗組かは判らないが、藩を脱する者もポツポツ出ている。 鉄之助の次兄辰之助は、家柄も家禄も低い為か、どちらかと言えば一旗組で、父と長兄と大喧嘩のあげく、ある夜ひそかに家と藩とを捨てた。鉄之助は兄に引きずられるようにして飛び出したものの、彼には何の目的も無かった。


二人はまず京都へ上がった。騒然たる都に何かを期待して・・・・・・。 しかし兄辰之助には多少の当てはあった。 それは勤王の志士と称する人達の間に話題の高い、会津公付属の新選組に入ることであった。 新選組には、幼友達である野村利三郎と言う者が入隊していた。 辰之助達とは新選組入隊の事情などもだいぶん違っているようである。


ある日突然、二人の止宿先へ野村が飛び込んで来た。 「隊では今、」隊士の大募集を行っている。二人共入隊するには絶好の機会だ。すぐ応募し給え」 と言うのである。 辰之助は何か、くどくどと手当金のことなどを尋ねていたが、鉄之助は、こんな生活をしていても始まらないので、直ぐ入隊を決意した。 兄もしばらくぐずぐずしていたが、結局入隊することになり、二人は野村に従って堀川通りにある新選組の本陣に行った。

入隊はわり合い簡単に許可された。 それは野村が近藤隊長の身の廻りの世話をしているので、その顔が利いたのであろう。 辰之助は一般隊士として編成に組入れられたが、鉄之助は年少であるので、当分見習いと言うことで、土方副長の小間使いを申しつけられた。 土方は忙しさに取り紛れて、口数も少なく、またあまり幼い隊士であるためか、鉄之助には用事も多くは命じない。


しかい鉄之助としては懸命に働いているつもりであった。 それは、小雪のパラつく底冷えのするひどく寒い日だった。 土方の部屋では用談が済んだものか、客の帰る気配がする。 「市村、もう少し炭火をついでくれ」と言う土方の声で、鉄之助は急いで木炭箱を持ち土方の部屋に行った。消えかかっている残り火を頬をふくらませてプウプウ吹きながら木炭をついでいると、火鉢の前に胡坐をかいていた土方は、


「おい市村、隊の生活は辛くないか」「いいえ、すっかり慣れましたので、辛いことなぞはありません」と少し切り口上で答えると、「それは良い、だがなァ・・・・・・ちょっと聞け」鉄之助は緊張した。「市村、これからは大変だぞ。いよいよ本式の戦争が始まるかも知れん。 どうだ、お前は故郷へ戻らんjか。両親の処へ帰った方がよさそうだ」


鉄之助は考えてもいない事を突然言われたので、どぎまぎしながら、「それはどう言うことですか。今さら私は故郷へは帰れません」「君はまだ若い。君の兄辰之助の大人であり、また何か考えもあるようだが、君のような少年をわれわれの巻き添えにはしたくない。 これからは新選組も、ただの警備隊では済まなくなるのだ。 将来ある君には、この際帰った方が良いと思う」


鉄之助は頬が紅潮して来た。 それは炭火のホテリだけではなかった。「嫌です。私は見習いでも、今は立派な新選組隊士と思っています。若くては駄目なのですか。私だっていつまでも若くはありません」 

 「うん。ところで、お前は何歳だっけ」 「はい、十四歳です。すぐ正月が来れば十五歳になり元服できます」 「十四歳・・・・・・。俺がその頃は、日野で剣術ばかりやっていた。俺の故郷は武州の田舎で、浅川と言う川のそばだ。 今のお前とはだいぶん違っていた。姉の嫁入り先に、ゴロゴロしていて、もう女のことなぞ考えていたものだ」


鳥羽・伏見戦、市村鉄之助も戦場に出撃     
土方は遠くを眺めるような眼差しをしていた。 それは、あの秋霜烈日の新選組副長土方歳三の顔ではなかった。

鉄之助は土方に懸命に喰い下がった。ついには抗う言葉も無くなり、「御国の為に生命を奉れ」とは、日頃の近藤隊長の訓辞中に出て来る言葉であるが、それを思い出し、御国の為に働きたいことを力説した。土方は「御国の為にか・・・・・・、少しお前には出来過ぎた言葉だが、それもいいだろう。

しかし、鉄之助、新選組にいると、たぶん君の父上や長兄達と戦うことになるだろう。
君の大垣藩も長州と結んだ。 大垣藩の鉄砲玉が飛んでくるぞ、それでもいいのか」
と言った。 

鉄之助はあくまでも自分の選んだ道を進みたい旨をのべた。すると、「よし判った。これからは厳しいぞ。年少だからと言って容赦はしないぞ。それは、うかうかしていると一瞬の間に命が吹き飛ぶからだ。ワッハッハ・・・・・・」

と豪快に笑い飛ばして言葉を切った。 鉄之助は、これで自分の行くべき道は決まったものと覚悟し、副長と過ごしたこの一刻は生涯忘れまいと思った。 それからまもなく翌年の正月にかけて、土方の言った通りひどい戦いとなった。 鉄之助は常に土方の側にあったが、ことに一月六日の戦いは惨憺たるものだった。火力に勝る薩摩兵に追いまくられて、幕軍は総崩れとなり、新選組も手ひどい打撃をうけ、戦死傷者も多く出た。後世この戦いを鳥羽伏見戦と言う。

この時、不覚にも鉄之助は左腕を銃丸で撃たれ、大阪城内の負傷者治療所に収容された。 しかし、彼は傍の土方副長が無事であったので、自分が身代りになったような気がして甚だ満足していた。

それから鉄之助等戦傷者を初め、生残りの新選組四十名ほどは、幕艦富士山丸に乗せられ将軍慶喜座乗の開陽丸を追って、慶応四年一月十ニ日大阪を立った。 十五日頃江戸に着いたが、鉄之助は土方の特別のはからいで、幕府御典医松本良順の自宅で手当てをうけることになった。 それは病の重い副長助勤の沖田総司の世話をも兼ねることであった。


そのうち、病状もさらに進んだものか、沖田は別の所へ移って行き、鉄之助は一人となったが、その頃は傷はほぼ恢復していた。土方は忙しい中を時々見舞いに寄ったが、二月も末の頃からプッツリ見えなくなったので、松本先生に尋ねてみたが、先生は「あ奴らは、甲州の方へ行った」としか教えてはくれなかった。 鉄之助は何となく不安を感じていた。


三月になってのある夜、突然土方が、ひどく憔悴した姿で訪れた。 「君が心配すると思って黙って行ったが、甲州で官賊と一合戦やって来たよ。 また負けたがね.。ハハハハ・・・・・・」 鉄之助は力無い土方の笑いの裏に、大変な戦争をして来たことを察した。「甲府城を押さえようと思ってなア。 しかし、どうにもならなかった。 江戸はもういかん。


実はこれから、関東の北から会津へ行こうと思うが、お前はどうする。ずっと松本先生の所で勉強するか、それなら俺が頼んでやる」 「私も十五歳です。是非お供させて下さい」「そうか。 江戸はいかんし、日本中ガタガタしているが、まだ何処かに俺達を必要としている所も必ずあると思う。お前も鉄砲玉の味も覚え、さぞ肝玉も太くなったことだろうから、一諸に行くか・・・・・・。


ところで、別の話しだが、君の兄辰之助はたまにはここに来るのか」 「一ヶ月ほど前に野村利三郎さんと見えただけです」その時、兄も野村もひどく酔っていて、女郎屋の話ばかりしゃべっていたが、そのことは、土方には言わなかった。 「兄がどうかしましたか」すると、土方は面を伏せて、言いにくそうに、「君には気の毒だが、実は辰之助は脱隊して行方知れずだ。


この忙しい時に女のことで野村と斬り合いをやったのだ。 野村は辰之助を斬ったと言い、切腹しようとしたのを、この御時世だ、もっと気の利いた死に場所は幾らでもあると言って、俺が野村の命は預かったのだが、辰之助の行方は知れない。しかし恐らく、命には別条あるまいと思う。生きていれば、何処かで逢えるさ、余り心配するな」


土方は慰め顔で言ってくれたが、鉄之助はいかに気の合わぬ兄弟とは言え、肉身であってみれば、人一倍栄達を望んでいた野心家の兄の末路が余りにも哀れで、涙がこぼれた。


 また、この時土方に命を預けた野村利三郎は、その後、函館戦で敵甲鉄艦乗取りの海戦の際、土方に背をたたかれ「死ぬのはここだ、飛び込め」と命ぜられ、一番乗りをしたものの蜂の巣のように銃丸を浴びて壮烈な戦死をしてしまった。 年わずかに二十六歳であった。